The Queen Is Dead

尾瀬みさき

目覚まし時計をセットしなくなって、九百日は経ったけれど、まだ千日にはならないはずだ。

胸が締め付けられるような痛みは、眠っていても脳のどこかで認識する。同時に、眠っている意識がそのまま縮んでいくのを感じる。目は覚めていない。まるで矛盾しているが、この感覚を表現するにはこれが適当なのだ。

夢の中で、俺は温度のない水に包まれている。足元は泥濘で、うっかり身をよじらせれば、ずるりと体が底に沈んでいく。底が抜けるんじゃない、俺が泥との区別がつかなくなっていく。なにもかもが緩慢な俺は、ただそう思っている。底に溶けゆく俺の姿を、カメラを切り替えながら眺めている。誰も引きずり上げてはくれない。そしていつも、泥も水も1カメも2カメも最初からなかったと言わんばかりに、まぶたを閉じて、たった今まで眠っていた自分に気付く。

「…………おはよう、鹿島」

目を開けると、朝日が室内を切り取るように照らしているのが分かった。カーテンが開いている。

中古のアーロンチェアに浅く腰かけて、スマートフォンをいじっている鹿島巡海に、俺は声をかける。

「おはよう、波留くん」

まるで自らがクールビューティーであるかのようにそっけない態度で挨拶する鹿島。室内なのにコートを着たままで、寒がりなのには違いない。

いまさら俺に対して芝居がかかっても意味がないのだけれど、案外、そういう無力な冗談が好きな女の子だ。

「今日は外寒かった?」

「ハル、って感じ?」

「……つまり、寒いんだ」

「どうしてこう、言葉の裏を読むようになっちゃったんだろうね」

ため息交じりに鹿島は俺をからかう。俺の苗字をもじったジョークは今にはじまったことではないので、いい加減パターンも見えてくる。

「東大生っていうのはやっぱり血も涙もないんだわ」

「ああ、コメントしたくないなあ、それ」

「今日学校でめちゃめちゃ言われるから慣れといたほうがいいよ、いまのうちに」

「ああ、学校行きたくないなあ、それ」

「皆勤賞の図書カード、今年は千円だって聞いたけど」

「それ、どこ情報?」

「ひーちゃんが言ってた」

教員と交際している同級生の女子の名前を出し、鹿島は小さく欠伸をした。彼女は日本人にしては色素の薄い肌をしていて、きめも細かいけれど、それだけに目の下の隈が目立つ。生活指導にひっかからない程度に化粧はしているが、隠しきれてはいない。

慢性的に寝不足なのだと俺は知っていた。毎朝六時半より前に必ず起きて身支度をする生活を続ければそうもなろう。そのくせ、授業中に舟を漕いでいるところも見たことがない。律儀というか、生真面目というか、そういうのは彼女の性分なのだろう。だから鹿島の前で、俺は寝不足という言葉を一度たりとも口にしたことがない。

「じゃあ、あと二日、なんとか踏ん張りますか」

石油ファンヒーターの温風は、ベッドには向いていないから届かない。けれど、ごうごうという音とともに、少しずつ六畳の自室を暖めている。

とはいえ、まだ床は冷たいだろう。サイドチェストに用意しておいた靴下を履いて、洗面所に向かう。熱湯で寝ぐせを直し、そのまま洗顔も済ませる。ドライヤーで髪を乾かし、制服に着替えるために一度部屋に戻った。

鹿島は既に部屋を去っていた。いつもの通り、サッシ窓から外へ抜け出ていったのだろう。俺は窓際に寄り、頭を掻きながらクレセント錠をかけた。

玄関の鍵は二重で、U字ロックまでかけているけれど、俺の部屋の窓は夜中、鍵がかかっていない。

毎朝、六時四十分になると鹿島は俺を起こしに部屋に入り込む。時間は自己申告だ。俺は彼女の侵入に気づいて目が覚めたことがないから、きっと音もなくそっと扉を開けているのだろう。そして、俺が目覚めたのを確認すると適当な時間に出ていく。

近所とは言っても、自転車で五分はかかる距離だし、小学校の学区がちょうど彼女の家と俺の家の間で分かれていたから幼馴染というわけでもないし、中学校でもろくに話したこともなかったし、そもそも寝ている他人の部屋に忍び込むなんていうのは現実にはあり得ない。

俺はまだ夢の中にいるか、または悪い冗談じゃないのか、そういうことを思う時期もあった。

だが、高校生活の、ええと、実に八分の七が彼女に起こされる日々だったのに、いまさら可能性を論じても仕方がない。起こってしまったことに対して、思ってもみなかったというのは、言い訳にもならない。

当然、鹿島がそうするのには理由がある。俺にベタ惚れしていて、世話を焼かなければしょうがない、というわけではない。

俺の心臓は六時四十五分に止まる。そういう呪いがかかっている。それを再び動かすのが鹿島だ。そういう魔法を使える。

九百日ほど前、高校一年の夏休み最終日、八月三十一日。窓ガラスの一部を割って俺の部屋に侵入した鹿島が、これからお前は心臓麻痺で死ぬと宣告した日。

カーテンを閉め切っていても、すっかり日が昇ったのが分かる七時十五分前。疑いようもなく俺の心臓が止まった。息がつまり、あるべき拍動がなく、体中に針金がささっているかのような冷たさが神経を苛み、そしてその感覚がたちまち失われていく。声が出ず、視点というものが理解できなくなり、とっちらかる、という言葉が俺の頭の中でとっちらかっていた。

そこから立ち戻ることができたのは、鹿島の力であるらしかった。

鹿島は息も絶え絶えの俺の背中をさすりながら言った。

「波留くん、わたしは責任をもって、あなたを毎日生き返らせてあげる。でもそのかわり、あなたは東京大学に行きなさい」

「何で、俺が、東大に?」

「交換条件。あなたにデメリットがないならいいでしょう」

俺は状況がまるで飲み込めなかった。けれど、半分死んでいたという実感は確かにあった。その恐ろしさは、あらゆる冗長な思考をはぎ取っていた。

彼女の言葉にうなずき、その日の一時間目、現代文の授業から、人が変わったかのように勉強に打ち込んだ。

幽霊部員だった囲碁将棋部からは知らないうちに除籍になった。

偏差値70という数字をはじめて見た。

死にたくない一心で勉強したら東京大学に合格してしまった。

呪われた男と、魔女。

そういう物語が突然にはじまって、その生活にだんだんと慣れていって、九百日あまり。

千日目を迎えられるのかどうか、雲行きは少し怪しい。

合格発表があったのがおとといの土曜日。昼食にキャベツしか具のない焼きそばを食べながら、金曜日に詰めなおした銀歯のかみ合わせの微妙な違和感に首をかしげていた。詰め物が高いのか低いのか、どちらだろうかと思案しながら、家族共用のタブレットでウェブサイトを確認した。

アクセス過多からだろう、正常に読み込めなかったので更新ボタンを押すと、今度はページが正常に表示された。合格者番号一覧のページを指でスクロールして、自分の数字があることに気づき、俺は画面を消して部屋に戻った。そして、引き出しからグリーンジャンボ宝くじを取り出した。十口、購入金額三千円。高校生にとって手痛い出費だ、それがふいになったことを半ば確信し、破り捨てようかと思い、万が一を考えてそっと引き出しに戻した。

そして、春休みで実家に帰ってきていた姉を呼び出し、ソファで昼寝をしていた父をたたき起こし、居間にいた母のそばに呼び寄せ、俺はこう言った。

「東大に合格しました」

その言葉を家族が理解する前に、間髪入れずにこう続けた。

「鹿島さんは落ちました」

「あらま。あらま……」

母は口に手を当て視線をさまよわせ、父は口をもごもごと動かし、姉は「まあ、センター利用とかまだあるでしょ」と現実的なことを言って場の空気を保とうとした。

「気を遣うなというのが無理なんだけど、まあ、なるべくいつも通りでよろしくお願いします」

俺は深々と頭を下げた。その振る舞い自体がどこか冗談めいて見えるのを狙ったものだった。

部屋に戻り、俺は鹿島に電話を入れた。

スリーコールで電話に出た鹿島は、

「ほっといて」

と言い放った。俺がかける言葉を探していると、

「いや、ごめん。今のは順序を間違えました。反省してます。なんでお前だけ受かってんだ、バカヤロー。おめでとう」

と、一切包み隠す気のない恨み言と祝福の言葉をいっぺんに送ってきた。

「ありがとう。その、なんだ」

「改めて言う。ほっといて」

彼女がほっといて、と言った時に余計な気を回すと彼女の不興を買うのはこれまでの経験で分かっていた。

「分かった。それじゃ」

と言って、通話を終えた。

その日は部屋の隅々まで雑巾がけをして、夕食の炊き込みご飯においしさと居心地の悪さと冗談のセンスのなさを感じた。どこかいつもより疲れた気がして、早めに眠りについた。

翌日曜日の六時四十五分、鹿島はすっぴんで、缶コーヒーの景品ジャンバーを着込んで、くちびるをひん曲げていた。

「おはよう」

「おはよう」

「俺は、今日は寝る」

「そう。わたしも寝て過ごす」

それだけ言って、彼女はさっさと部屋を後にした。俺もカーテンを閉めなおして、羽毛布団に潜り込んだ。