夢のとなり

愛宕恵

光陰矢の如しとはよく言ったもので、ボーっと時の流れに身を委ねていたら、あっという間に僕の学生生活は終わっていた。

地元の占い師に「ただなんとなくで生きていけるのは、ある意味才能ですよ」と皮肉たっぷりに言われた時は流石にイラっとしたけれど、それは、的を射ていたからこそなのかもしれない。

受験も就職も将来の夢も。良くも悪くも「なんとなく」でやり過ごしてしまったし、それで特に不自由なく生きていくことがしまった。

本当は作家になるというぼんやりとした夢を持っていたけど、あらゆる情報が視覚化されて久しい昨今なので、割と早い段階で自分の限界値が見えてしまった。

才能がある人とは、そもそものスタート地点が違ったし、そうでない人たちとも切実さが違った。才能の塊たちが、本気で血ヘドを吐いて、泥まみれになりながら、なんとか這い上がって、それでも一握りしか叶えられないかもしれない夢。

ならば、その道を外れて、ここまで得てきた経験値を最大限活かせる他の場所へ行くのが賢明だろう。世の中を上手く渡り歩くコツは、勝てない相手に挑むのではなくて、自分が相対的に上位になれる場所を探すことだ。

***

西暦二〇五七年の現在になっても、車は空を飛んでいないけど、空を飛ぶことにあまり意味がないことには気付いていた。

少子高齢化が一層進み、葬儀場や老人ホームといった施設がもの凄い勢いで増築。皮肉な話だけれど、そこに多大な需要が発生することになり、今や老人ホームは、若年層のポピュラーな働き口の一つになっている。僕もその例に漏れず、大学卒業後は老人ホームの職員として採用された。

『老人ホーム』といっても、その言葉の意味はここ数十年で大きく変わっている。

科学の発展と普及は、加速度的に僕たちの日常の風景を変えていき、例えば、足腰が不自由な人は、街中や家庭でパワードスーツを着用するのが普通で、今や誰でも安価で入手できるようになっている。旧時代的な見栄えへの抵抗感(ガンダムみたいで恥ずかしいらしい)から、あえて車椅子を愛用している人も少なくないけど、こちらも自動車の技術を応用した自動運転が主流。技術的には行き着くところまで行き着いたので、座り心地や、ファッション性を追求するものとなっている。

アルツハイマー病やボケなんかも全治まではいかないけれど、早期発見が叶えば、そこから脳機能の低下をピタリと止めることは可能になっていた。もちろん、それでも解決しきれない問題もまだまだあるのだけれど、それは福祉ではなく、医療が受け持つ分野であり、高齢者がある程度、自活できる環境が整った現代において、老人ホームは、必ずしも要介護認定者が介助を受けながら余生を過ごす場所ではなくなっていた。

娯楽が多くなかった前時代と比較して、現代の高齢者たちは、自分の手で情報の取捨を行い、選び取れる時代を生きてきた人々だ。その結果、入居する高齢者のニーズに合わせた、多種多彩な老人ホームが誕生した。

例えば、プロ野球好きが集まる老人ホームは十二球団それぞれの入居施設が全国各地に用意されていて、福祉事業の一環として、球団自身が運営しているケースも珍しくない。敬老の日には高齢者貸し切りデーが行われるのが恒例となっており、そこに優勝争いが絡むと、毎年ファンを『老害』と糾弾する過激なニュース記事が飛び交うことになる。現役プロ野球選手や、レジェンドOB選手が訪問することもあるため、人気老人ホームの一つだ。

他にも音楽、車、ゲーム、アニメ、食べ物、ギャンブル……、もはや経営者による椅子取りゲームの様相を呈していた。そのどれにも所属しない、またはしたくない人のために、前時代と変わらない老人ホームも存在していたけど、そちらの方がマイノリティであり、ほとんどの場合は「○○老人ホーム」という任意のサブタイトルが付与されていた。

僕の働く『ラビットハウス』は、アニメカテゴリの中からさらに絞られて、声優のファンが集まる老人ホームだ。名称は、前時代に一世を風靡したアニメから取られている。入居者の大半は、現代の声優ではなく三~四〇年前に第一線で活躍していた声優のファンであり、ラビットハウスもその年代にターゲットを絞った運営が行われている。

基本的にはスタッフも、その老人ホームが扱っている分野についての基礎知識を備えたものが務めている。素養の有無に関わらず、研修期間中に教育カリキュラムは設けられているのだけれど、採用時点の適性検査の一つとして取り入れている場合が多く、僕も元々作家を志していたころに、サブカルチャーの知識を蓄えていたことが採用の決め手になったらしい。アニメは人並み以上には好きなつもりだったし、特に古典に分類されるジャンルのアニメにも触れていた。『けいおん!』が好きだというと、入居者の皆さんと話が盛り上がったりする。

夢は叶わなかったのだけれど、そのために蓄えた知識や経験が活かせるのであれば、ある程度、今の職場には納得はしている。話し相手として、孫のように可愛がってもらえる(こちらがお世話をする側なのだけれど)のも、そんなに悪くない気分ではあった。

勤務時間は穴を開けないように、従業員の間で持ち回りのシフト制になっており、今日は朝九時からと比較的余裕のある始業だった。

職業柄仕方がないとはいえ、日によって出退勤時間がまばらなのが、一番しんどいところではあるように思う。

守衛さんに挨拶を交わし、消毒液の匂いがする清潔な廊下を真っ直ぐ進む。従業員控室のタイムカードを切って、更衣室に入ると、オーナーの姿があった。

「オーナー、おはようございます」

オーナーは、外見から得られる情報だけでは掴みどころがない人だ。パーツごとのバランスが綺麗に整っていて、まだ二十代だと言われても納得するピカピカな顔立ちをしているのだけど、表情や身に纏っている空気感の重苦しさは中年サラリーマンのそれで、少し特徴のある声色をしている。いつ家に帰っているのか分からない。

「おー、おはよう朝見くん。早速だけど着替えたら一二五号室よろしくね」

「丸岡さんですか」

「相変わらず気に入られてるねー。嫌?」

「嫌とかではないんですけど、話が長いからなぁ」

「ははっ間違いない。まあでも、心を開いてくれてる証拠だよ。今日もよろしくね」

「はい。よろしくお願いします」

挨拶を交わして、更衣室でポロシャツにチノパンのユニフォームに着替え終えると、言いつけられた通り、入居者棟の一二五号室へと足を向ける。

スタッフルームと、入居者棟の間には、独立したレクリエーションルームが設けられており、その前を通らないと辿り着けない構造になっている。

「あー! よっしゃいくぞー! タイガー! ファイヤー! サイバー! ファイバー! ダイバー! バイバー! ジャージャー!」

レクリエーションルームの前を素通りしようとしたところに、朝っぱらから血圧が一〇〇は上がりそうな野太い叫び声が廊下まで響いてくる。

ナースコールではなく、声優ライブにおけるコールが鳴り響くのが、この老人ホームの日常なのだ。

一応、確認のために自動ドアを開けて、室内を覗くと、最上さん、近藤さん、小野さんの三人組が、壁沿いに設けられた大スクリーンを前に言い合いをしている。

「はい、ミックス打ったー! 最上さん出禁ー!」

「あ⁈ なんでだよ近藤! 歌詞カードにも書いてある推奨コールだぞ!」

「この前、アニサマ二〇一七の注意事項をハウスルールにするって決めたからじゃないでしょうか」

「小野さん、具体的にはどんなだっけ?」

「『両手を激しく振る、広げる、回転させる、上半身を反らす、過激なジャンプ行為、また咲きクラップ、MIX、周囲への迷惑となるコールなど、いわゆるオタ芸と称される応援行為も禁止します』ですね」

「何も出来ねえじゃねえか! ふざけんな!」

最初に遭遇した時は喧嘩かと思ってオロオロしたけれど、慣れてしまった今となっては、仲良しおじいさん三人組がじゃれ合っているだけだと分かった。

「おっ、朝見くんいいところに。部屋の方に行くなら、ついでに最上も部屋に戻しといて」

普段通りの光景だったので、無視して入居者棟に向かおうとしたところを、近藤さんに絡まれる。

最上さんは元々アイドル現場上がりらしく、何かとコールを入れたがる。声も身体もデカイ。

「おはようございます。みなさん、元気がいいのは何よりですが、廊下まで響いてるんで、もう少し声のボリュームを下げてくださいね」

「ほらぁ。怒られちゃったじゃん。」

「うっ……ごめんなさい」

「まあまあ。ほら次はみやちゃんのステージですよ。何といってもこの年は、冒頭に三枚目のアルバムが出たんですよ。これが実にエモーショナルで、ユニットが充電期間に入って、すぐにソロアルバムをリリースする瞬発力こそがみやちゃんらしさとも言えますし……」

小野さんが穏やかな口調でライブの背景を解説し始めると、二人ともふんふんと頷きながら熱心に聞き入っている。

小野さんは元々声優誌のライターを務めていたらしく、声優全般に広く知識があり、何より分け隔てなく愛情を持っている。本来なら、むしろこちらが給料を払うべきレベルの人材だ。

ラビットハウスのレクリエーションルームでは、食堂も兼ねた憩いの場として、終日、大型の投影機を使用した『ライブ鑑賞会』が行われている。