白黒ワールズエンド

九十九葵

陰茎から鼻水が出た。

その事実は少年にとってあまりにも衝撃的で、終末的だと思った。

目覚めた瞬間、この世の終わりだと思った。罪悪感の波に襲われた気分だった。

タオルケットを跳ね飛ばし、ズボンを脱ぐ。パンツもすかさず脱ぎ、パンツの中をまじまじと見つめた。

やはり何度見ても鼻水だった。

とにかく、このことをほかの誰にも気づかれてはいけないと、本能的に悟った。何度下着の中を見ても、白い粘液がこびり付いており、生臭い匂いが鼻孔を嬲った。

夢かと思った。思いたかった。だが、何度自分の頬を抓っても、現実は変わらなかった。

自分の股間をティッシュで拭う。べたべたと指にくっつき、不快な気分になる。いや、これは本当に不快な気分なのだろうか。初めて抱いた感情であり、少年は断定することができない。

妙な感情と戦いつつも、幾層にもソレを包んだティッシュをゴミ箱に投げ捨てた。外れることなく、一発で入った。

いや、ただティッシュに包んでごみ箱に捨てただけではすぐに悟られてしまうだろう。少年の家族は鼻が利く。こんなにも強烈な匂いは忽ちに感づかれてしまうだろう。汚れてしまった下着も、どうにかしなければならない。洗えば落ちるのだろうか。

そもそも、今は何時なのだろうか。朝日がカーテンの隙間から差し込んでいるのに気付いた少年は血の気が引いた。こんなところを誰かに見られたくない。特に、家族には。

いつも使わない目覚まし時計を手に取る。六時を差していた。

幸い、この時間帯は、母親は起床していない。安堵の息を漏らした。

少年はベッドから起き上がった。

足音を立てないよう、ゆっくりと進む。やけに軋む音が響く。それが妙に心をざわつかせる。

いつも何気なく通っている廊下も、今までの人生の中で一番慎重に歩いた。左手には例のものと下着を胸元に抱えるように持ち、右手は壁にしっかりと手を添えながら、目的の場所を目指した。

確か、台所にビニール袋があったはず。それに包んでごみ箱の奥底に隠すようにしまえば、だれにも気づかれずにそのまま捨てられるだろう。下着は、洗面所で石鹸で洗ってしまえばいいだろう。少年は強く思うようにした。そうであってほしい。

少年は神様に願った。

☆ ☆ ☆

結論から言えば、誰にも悟られることなく、すべて終わらせた。

たった今、ゴミ捨て場に、例のものを捨てたのだ。いつもゴミ捨ては少年がやっていたため、怪しまれずにゴミと一緒に捨てることができた。

母親には気づかれなかった。少年は安堵の溜息を漏らした。

今日起きたことはもう忘れよう。嫌な記憶は忘却の彼方へと誘うのだ。

今朝はどうなることかと思ったが、なんてことない。いつも通りの日常だ。

自然と足取りは軽くなる。早くいつもの生活に戻って、いつも通りの自分になるのだ。

先生が黒板の端に何か書いている。朝のホームルームは普段と何ら変わらない和やかに進んでいる。

「はい、じゃあみんなは準備して待ってろよー」

先生は出席簿を片手に、そそくさと教室から退出した。細身で小柄のあの先生がすばしっこく動く様は小動物のようだ。もちろん、そんなに可愛いとは思わないが。

少年は一時間目の備をするため、ランドセルから教科書とノートを取り出す。一時間目は算数だ。

「チンコ!」

少年の後ろに座っているクラスメイトの男子、八塚が叫んだ。普段ならなんとも思わないセリフだが、今の少年にとっては聞きたくない言葉だった。朝の出来事がフラッシュバックする。

「なんだよそんなにびっくりすんなし」

そうは言われても、と少年はつぶやく。そんな少年の気持ちを知って走らずか、八塚はひたすらに連呼する。

「はいはいチンチン」

彼は昔からの突発性男性器叫喚症なのだ。どうか許してほしい。少年は誰に向けたわけでもない謝罪をした。自分と同年代の男子は幾分か幼稚に思えた。

女子たちも「八塚サイテー」と笑っていた。

ふと、少年は思った。こんなにも男性器を連呼する彼なら、何か知っているのだろうか、と。

少年はほかの誰にも聞こえないように聞いた。陰茎が風邪をひいてしまったことを話した。もちろん、自分が、とは言わず、とある友人と前提した。

八塚は大笑いしながら「チンコが風邪ひくとかねーだろ! そいつアホでしょ!」と机を叩いた。クラス中の注目が少年たちに集まる。少年は恐れをなした。自分に向けられた侮蔑の視線ではないのだが、いたたまれない気持ちになる。

やはり自分がおかしいのだろうか。自分は本当に人間なのだろうか。少年に向けられたものではないのに、友人の視線が痛く感じる。もう誰にも聞かない方がいいのかもしれない。

「よし、お前ら授業を始めるぞー」

先生がドアを開け、教室に入ってきた。

既に少年の心は憔悴しきっていた。授業の内容はほとんど耳に入ってこなかった。

☆ ☆ ☆

今日は、授業にも遊びにも全然集中できなかった。少年は肩を落とす。

通学路、少年はただ一人、歩き続ける。下を向き、とぼとぼと帰路へ着く。

記憶から消したい。忘却の彼方へと。強く願うも、思えば思うほど、脳内にひどくこびり付き、拭うことはできない。

どれだけの時間が経過したのだろうか。気づけば、少年の家の目の前まで来ていた。正確に言えば、団地の中の公園のところまで来ていた。何度と見た風景だが、少年は何も思わなかった。ほかのことで頭がいっぱいだかだ。

ふと、ゴミ捨て場に目を向ける。そこには、今朝捨てたゴミ袋はなくなっていた。今日は、可燃ごみの日だから、もうすでに業者が処理してしまったのだろう。

一瞥し、そそくさとこの場を去ろうと思っていた。しかし、あることに気付き、少年は足を止めた。

雑誌がうず高く盛られていた。何気なく気になり、少年は近づいた。

単に言えば、卑猥な雑誌だった。

少年は頬を赤くした。こんなものをこんなところに捨てるなんて!

だが、高く盛られたそれは、少年を強く惹きつける。ただならぬ引力を感じた。

周囲を見渡す。

夕暮れ時で薄暗く、誰もいないように見える。この時間帯は、この近くの公園で子供たちが遊具で遊んでいる。だが、今日に限って誰もいなかった。そのことがさらに少年を焚きつけてしまった。内なる欲望をそそる結果となった。 

人生の岐路。

今少年の目前には二つの道が伸びていた。これを手に取ってしまえば少年の扉は開かれる。逆に見過ごせば、少年はいつもの日常を過ごすことができる。

まさに、ふたつにひとつ。少年は選択を迫られていた。

はたから見れば、ほんの数分の出来事に見えるだろう。だが、少年にとっては何時間も経過しているように感じた。

そして、長い葛藤の後、少年はその艷本を手に取った。表紙は漫画的なイラストが描かれていた。半裸の少女があの時見た白い液体にまみれ、恍惚な表情を浮かべている。

手に取ったはいいものの、決心がつかない。恐る恐る持ったため、落としそうになる。これを紐解いてしまってもいいのだろうか。

葛藤。

どれほど時が経ったか。

少年は、開いた。おもむろに。かさかさと乾いた音がする。乾燥しきった紙の音が、少年の耳をくすぐる。ざらつくしわだらけの紙の感触が指先に絡む。

少年に衝撃が走る。今まで見たことのないものが、広がっていた。正直、グロデスクに感じた。

すぐさま本を閉じた。『見るなの禁忌』を見てしまった。誰かに殺されてしまう、と少年は思った。

このまま捨ててしまえば、なかったことになる。なかったことにできるだろうか。いや、なかったことにしてしまおう。

だが、それを手放すことはできなかった。少年はそこまで大人ではなかった。

まじまじと表紙を見つめた後、少年は周囲をきょろきょろと見渡した。誰もいないことを確かに確認する。

普段から重鈍な少年とは思えない素早さでランドセルの蓋を開ける。まだ入るスペースは残されていた。それを確認し、少年はランドセルの中に、本をしまい込んだ

夕方の時報が鳴り響いた。

びくり、と少年の体は跳ねた。だれかに怒られたような気がした。

最早、ここにいる必要はない。早くここを離れなければ。

大丈夫だ、誰にも見られていない。

少年は何度も自分にそう聞かせた

☆ ☆ ☆

「あら、おかえりなさい」

エプロンを来た母親が、出迎えてくれた。