人の住む場所

尾瀬みさき

家主に対して「煙草はベランダで吸うように」とは、彼女は一体何様のつもりなのだろう。俺が吸っている間、お前が部屋を出ていろと言いたくもなる。

しかし言ったら言ったで、煙草をやめろと言わないだけありがたいと思え、くらいのことを返してくるだろう。昔からあいつにはわがままなところがある。

別に構わないじゃないか、部屋で煙草を吸ったって。六畳の間の壁紙がヤニで気付かぬうちに変色していくだけだ。しかもこのまま行けば、いくら汚そうが敷金が返ってくるというのに。

ベランダで白い煙を吐き出す。言っても仕方がない。喫煙者が肩身を狭い思いをするのは既定路線だ。何もかも変わっていく。受け入れることに慣れていかなければならない。

公営団地の五階、そのベランダから見える風景も変わった。以前ならくすんだ白い壁の建物が等間隔で続いていた。今では緑色の防護ネットに覆われ、日に日に古い棟の数は減っていく。

そして更地になったそばから、巨大クレーンが鉄骨を運び、新たに賃貸マンションを建てている。新陳代謝を連想して、成人を境に気になり出した鼻の毛穴に意識が向く。煙草のすすが黒ずみの原因の一つなんだよ、と部屋の中の彼女は言っていた。黒いのは酸化しているからじゃないかと思ったが、真偽を確かめたことはない。俺が煙草を吸うことに変わりはないからだ。喫煙ときれいな肌とを天秤にかけて、後者を取るほど俺は自分の容姿に頓着はしない。もちろん目立たなくなるに越したことはないけれど。

建設現場の、建材か何かを打ち叩く音と、高架線を走る列車がレールの継ぎ目を踏む音が団地の壁に反響して聞こえてくる。どちらも硬質な音で、耳障りとはあまり思わない。深夜の洗濯機の回る音で目が覚めることに比べたら、子守唄のようでさえある。

ベランダにいると他にすることがなくて、日々繰り返される小さな出来事に考えが引き寄せられていく。振り払うかわりに、長くなった灰ごと火をもみ消す。

部屋に戻ると、つけっぱなしのテレビから歓声が上がるのが聞こえた。メジャーリーグの衛星中継の映像は、ダイヤモンドを一周する野球選手を映し出していた。誰かが誰かからホームランを打ったらしい。

ホームインして神に祈るバッターも、腰を当てスタンドを見つめる東洋人のピッチャーも名前は知らない。だから俺は訊いた。

「誰が打った?」

「レンドンがツーラン。マエケンもぴりっとしないね」

彼女はこちらに一瞥もくれずに答えた。

「……ああ、日本人か」

前言撤回。打たれたピッチャーの名前は聞いたことがある。日本人だ。それでもやっぱり、日本プロ野球でどのチームにいたのかは分からない。俺が耳にしたことがあるくらいだから、読売ジャイアンツ辺りだろうか?

「菊花、パンツ見えるぞ」

「いいよお、いまさら。毎日同じなんだし」

スカートを指でひらひらとさせているが、色気はない。墨色のセーラー服は彼女が在籍していた高校の制服だ。その上に白いニットセーターを羽織っている。スカートを短く詰めてあるので、角度によってはピンク色のショーツが見えてしまう。下着が見えても清潔な印象が勝るのは彼女らしいと思う。

短い膝を抱えてぷかぷかと宙を漂う彼女、生駒菊花は、三年前に死んだ。

そして幽霊となった。

それ以来、この古びた公団住宅の一室に居候として住み着いている。

新鮮味というのは大事だ。美人は三日で飽きるというが、下着も同じらしい。いわんや、三年も同じものを見ていればなおさらだ。

菊花が居ついて以来、俺は自室で煙草が吸えなくなった。彼女が文句を言うからだ。副流煙でむせることもなければ、癌になることもないし、きっと臭いも感じないはずなのに。

五十年前、この街はタヌキが住む湿地帯だったそうだ。そこを住宅公団と鉄道会社と大学とが結託し、団地を建て、駅を作り、キャンパスを移転した。その団地で俺は生まれ、十七号棟五〇九号室でずっと暮らしている。

駅と大学と団地、その三点で区切られた領域が俺にとっての世界のはじまりで、子供の頃の全てだった。ここが地球のヘソではないと分かった今でもその感覚は拭い去れないでいる。世界を踏破したという幼稚な達成感も。

集合住宅の立ち並ぶ隙間を縫うように、砂場とブランコとベンチだけの小さな公園があった。

公園の敷地の真ん中で、三年前、拳銃自殺があった。その発砲音を俺は自室で聞いた。英語の問題集を解いていて、集中が途切れはじめていた頃だった。パン、という短い音は、ロケット花火にしては乾いた音だな、と感じたのを覚えている。

確かめたわけではないが、あの時間、団地にいた住人の少なくない数がその音を耳にしたと思う。林立する建物の壁は硬質な音を反響させ、遠くまで届く。けれどその遺体を発見したのは、数分後に飼い犬の散歩から戻ってきた老人で、さらに正確に言うならば、普段はまったく吠えないのにいきなり大声で鳴きはじめたという飼い犬だった。血か硝煙か、きっとそういった異質な臭いに反応したのだろう。

皮肉なことに、発砲音ではなくその鳴き声によって野次馬は集められた。俺もベランダに出て、公園に人だかりが出来ているのを目にし、玄関を出た。

団地の階段を下りたところで、スカートのポケットに手をつっこみ、うつむき加減で歩いている菊花を見つけ、俺は声をかけた。

「生駒。公園で何かあったみたいだけど知ってるか」

菊花はとてもつまらなそうな顔をして言った。

「野次馬? 暇だよね、沖原も」

「俺は忙しい。確認したらすぐに戻るさ」

「確かめるほどのものじゃないし、確かめないほうがいいよ、あんなの」

嫌悪感をにじませて言う。菊花の口ぶりは、明らかに事態を見た人間のそれだった。

「なんだよ、お前だって見てきたじゃないか」

俺の軽口に応じることなく、菊花はぽつりと呟いた。

「公園に死体が転がってる」

「え、あっ。マジか。マジかよ。……見たのか」

思わずそんな言葉が出た。

「んー、見たっちゃ見たけど。でも、暗いしさ。人だかりもできちゃったし、今から行ってもなんだか分からないと思うよ」

死体。何かが公園で死んでいる。犬か、猫か、それともタヌキか。五十年前、ここにはタヌキが住んでいた。老いたタヌキが死に場所にふるさとを選んだというなら、なんともロマンチックな話だ。

残念なことに、俺はこの団地の中でタヌキを見かけたことは一度もない。死体が人間のそれであるというのは分かっていた。

けれど、状況の理解に感情が追いついていかなかった。普段気にもしない心臓の鼓動や呼吸が、自分でも芝居がかっていると思うぐらい、大きく聞こえた。

だから俺は、ただ感情のままに訊いた。

「いや、生駒、大丈夫なのか」

俺の言葉に、菊花はきょとんとした表情を浮かべてから、おかしさをこらえかねるといった調子で笑った。

「おおお、優しいこと。びっくりだね。沖原もちゃんと大人の男の子になっているとは」

「なんだよ、大人の男の子って」

菊花の冗談に、俺は安心していいのか、心配すればいいのか、分からなくなってしまう。

俺の暮らす団地のまっただなかに死体がある。その分かりやすい非日常に俺は安直に興奮した。それはきっと、人から聞いた話だからだ。現実でありながら、他人事でしかない。

けれど、目の当たりにしてしまった菊花にとってはどうか。

俺は人間の遺体にこれまで幾度か対面したことがある。

それは祖父であったり、祖母であったり、父であったり、母であったりする。

葬儀の日、死に化粧をした母を見た時の安堵を覚えている。

あの時、俺は、ああ、母はようやく死ねたのだ、と深くため息をついた。病院のベッドに横たわり、ふざけたように白け、乾いていくあの時の母は、まだ死んでいる最中だったから。

その安堵が正常な反応であったのかは、今でも分かっていない。繰り返せば多少は慣れていく。それでも死のなんたるかを理解することとはほど遠い。

だから、俺はただうろたえることしかできなかった。そうすることで、俺がお前に何かかけたい言葉があるのだと、言い訳がましく示すように。

菊花は俺の様子を見て、小ばかにするように鼻を鳴らした。

「もじもじしちゃうのがださいよね。愛しのあのひとは何も言わずにわたしを抱きしめて、目じりを指でなぞってくれるのに。自分でも気付かぬうちにこぼれた涙を拭うために」

彼女は手で口元を隠して、小首を傾げてみせた。俺は、普段通りに話そうと決めた。

それが菊花の心をほぐすことに繋がるのなら。

「俺が本当にそれやったらどうするんだよ」

「グーで殴るよね」

「横暴だ……」

「安全圏から口説こうなんて甘いよ」

「かたやホールド、かたやボディブローって完全に格闘技だろ」

「簡単にポジション取らせると思うなよ。わたしは軽い女じゃないぜ」

菊花はそう言って、熊のように両腕を大きく構えた。脇ががら空きで、その気になれば抱え上げて持ち上げられそうだ。