校舎と部室棟のほんの僅かな距離さえ億劫になる。冬という季節はどうも性に合わない。
引き戸を開けた途端、冷気が身体を包み込んだ。身震いした。特に今日はすこぶる寒い。外に一歩踏み出すだけでも億劫だ。それでも決心して歩み始めた。たかだが十数メートルしかないのに大げさだとは自分でも思う。後ろ手で扉を閉める。そして小走りで部室等へ向かう。
僕は横目で運動場を見た。野球部の生徒たちがグラウンドを走り回っている。寒さに耐えるように、掛け声を上げている。こんな中、外でトレーニングしている生徒を見ていると同情の念が湧く。
間もなく部室棟に入った。廊下も外ほどではないが、寒々しい。早く部室に入りたい。ウチの部室は二階にある。逸る気持ちを抱えて僕は階段を駆け上がる。
みんなはもう来ているだろうか。いや、先輩たちは来ていないだろう。時期が時期だ。
ならば、あの子は、もう来ているだろうか。彼女の顔を思い浮かべた。僕よりも先に教室を出て行ったから多分そうだろう。
クラスは同じだし同じ部に所属しているから声をかけて一緒に行けばいいのに。でも、彼女なら「一人でできることをわざわざ一緒にやる必要はない」と切り捨てるだろう。
部室は階段を上り終わってすぐ横にある。こういう時、近くに会ってよかったと度々思う。
扉に手をかける。そして開ける。
「ああ、小海クンか……」
案の定、部室には既に先客がいた。小海優人、となんだかありきたりな僕の名前だが、彼女に呼ばれると何やら特別な感覚に陥る。
僕は「おっす」とだけ返事した。鞄を床に置き椅子に座った。彼女と机を挟んで対面する。すると彼女と目が合った。
「今日、先輩たちは来ないよ」
「そう」
一瞬だけ僕と視線を合わせて、すぐに本に視線を戻した。
先輩たちは受験勉強に向けて追い込みをかけている。
我が部、ボードゲーム部はほとんどの部員が三年生で占められており、二年生は僕と彼女だけだ。一年生は誰もいない。
先輩たちがいなくなれば、この部はもう存続できないだろう。仕方がないことだ。中学生にとってボードゲームよりもテレビゲームの方が面白いからだ。
目の前の少女、高良木肇という少女は例外だが。尤も、僕ほど意欲的かと言えば違うが。活動に積極的に参加することはなく、最近は特にこうしてここで難しげな本を読んでいるくらいだ。人が集まったらゲームに参加することもある。最近は先輩たちが来ないので専らこんな感じだ。
「……先輩たちも大変だね、受験なんて。嫌な束縛」
「確かに」
僕らもじきに同じことをしなければならない。憂鬱だ。
「部活だって、強制されることも多いしね。ここは違うけど」
うちの中学校は部活に入部することが強制されているため、全ての生徒は何らかの部活かクラブに所属している。僕は元よりボードゲームが好きなのでここに入部した。小学校からの友人には割りとバカにされたが。
彼女もウチに所属はしているが、彼女の入部理由は知らない。いや、個人的に聞いたことはあるが、本心には思えなかった。「人があまりいなさそうだったから」は少しばかりカチンと来たが、今は特に気にしていない。事実だからだ。それに最近はよく相手をしてくれる。僕からは不満はもうない。少なくとも二年近い付き合いになるが、束縛を嫌う彼女のことだ、おおよその理由は想像がつく。
「で、今日は何する?」
椅子の横の棚の中を漁る。ひとつ取り出しては机の上に並べていく。間もなく大小も色合いも様々な箱が並んだ。どれも僕の大好きなボードゲームだ。
「別にどれでもいいけど……、どうせ私が勝つんだから」
「うっ……でも、今日こそは負けないよ」
「それを聞いたのもこれで何回目かな?」
言い返せないのが悔しい。
「それじゃあ、始めようか。君が最も得意とするゲームでね」
彼女はパタン、と本を閉じた。
☆
結論から言うと、負けた。
やはり高良木さんは強い。どんなに追い詰めていても、いつも終盤でひっくり返されてしまう。負けても悔しさより、すがすがしさを感じる。それくらい、劇的な逆転なのだ。僕も一度は憧れてそのようなプレーをするが大抵自滅してしまう。
「運がよかっただけよ」
彼女はまんざらでもない笑みを浮かべている。いつも無表情で、たまに表情を変えてもしかめっ面でクールだけど、こういう時は女の子らしい笑い方をするんだな。
「運も実力のうちだよ」
僕は素直に称賛した。
「それにしても、序盤とか結構資源腐らせてて全然町とか作れてなかったのに」
盤面を思い起こす。
「強い発展カードを引き込めたから、それで押しただけ。……もう一ターン遅かったら私が負けてた」
「まさか一ターンで最長交易路と最大騎士力持ってかれるとはねえ」
僕は頭を掻いた。今度こそいけると確信していたのだが。
「君の戦い方はどっちつかずなんだ。一度決めた戦法を簡単に変えてはいけないよ」
ごもっともな意見だ。
「臨機応変って言ってほしいな」
「残念、勝てない戦法はただの愚計だよ」
ぐうの音も出ない。だが、腹立たしさは感じない。それが彼女のなせる業か。僕にも欲しい要素だ。
「なら、もう一回やる? 今度は絶対負けないよ」
「……悪いけど、もう時間。世界は私を縛っているのよ」
時計を見ると、もう一七時を指していた。早いものだ。本来、部活終了のチャイムが鳴るにはまだ三十分早い。彼女には門限あるため、この時間に学校を出なければならないのだ。相変わらず大変そうである。
「そう、残念。あ、片づけやっておくよ」
「ありがとう」
そんな僕を尻目に彼女は帰宅の支度をし始めた。赤色のPコートを羽織り、チェック柄のマフラーを首に巻いた。そしてつかつかと足音を立てドアへと向かっていく。
「それじゃあ、また明日」
彼女の後ろ姿に、声をかけた。
彼女は僕を一瞥して手を小さく振った。言葉はなかった。
扉は閉ざされ、廊下を歩く彼女の足音も間もなく聞こえなくなった。
「お嬢様は大変そうだなぁ」
僕みたいな一般人では考えも付かないような気苦労があるのだろう。現に、どのクラスメイトよりも大人びて見えるから。
さて、僕もそろそろ帰ろうか。もう先輩たちは来なさそうだし。机の上に置かれたカードやコマを容器に戻していく。片づけに時間はかからず、すぐに終わった。
箱を棚に戻し、それを意味もなく見つめた。
カタン、か。
未踏の地を開拓し、資源を集めて発展する。その一員になれたら楽しそうだなと夢想する。
ふと、窓の外を見つめる。ここからは、裏門がよく見える。
目を凝らすと、そこに高良木さんの姿が。そして、彼女の歩く先には、黒い高級車。いつも彼女が使用しているものだ。
いわゆる、お嬢様、の生活とはどんなものなのだろうか。正直、想像がつかない。少なくとも、僕たち一般人よりも生活のレベルが違うだろう。娯楽も、ボードゲームよりも面白いものがあるのだろう。彼女にとってはそれが日常かもしれないが、僕にとっては非日常だ。
彼女と話していると、どこか浮世離れした感覚に陥る。初めて会った時から感じた、この高揚感。
この気持ちは、彼女への憧れかもしれない。だが、そんな簡単に一言で済ませていいものでもない気がする。僕はこのどうしようもない感情を持て余している。
「さて、もう帰るか」
もう部室には誰も来ない。ここに一人でいてもしょうがない。コートを羽織り、鞄を背負った。部室の鍵も忘れずに施錠した。そして一階の守衛室で鍵を手渡した。
守衛は、いつも通り無愛想に対応した。最初は怖かったが、もう慣れっこだ。
ガラスのドアを開けると、風が頬を撫でた。身震いした。こちらのほうも早く慣れたいのだが。
薄暗い道を、電灯が明るく照らしていた。他の生徒もちらほらといる。僕はその中に紛れ込んだ。ここにいるみんなも、帰宅途中なのだろう。最近はすぐに暗くなってしまうため、多くの生徒がいつもよりも早く帰宅させられる。それは運動部でも文化部でも同じだ。安全第一、というわけだ。生徒に何か起きてからは遅いのだ。と大人は言う。
僕としては、部活の時間が少なくなるので嬉しくないのだが。
校門をくぐる。駅まで、少しかかる。コートのよれを直す。歩くスピードも少しだけ上げた。
僕はいつも通り、今日の出来事を頭の中でリフレインした。学校から駅まで徒歩数分の間、いつもやっていることだ。日記の代わりみたいなものだ。
今日は、楽しかった。物足りないけど。
社会の小野嶋先生の昔語りが面白かった。渾身のシャクシャインの物まねに教室が湧いた。先生の持ちネタらしい。
給食は僕の好きなカレーだった。でも、もう少し辛い方が好きだ。
高良木さんとカタンをやった。負けてしまったが、楽しかった。もう一度やりたい。
先輩たちは来なかった。針山先輩は来る、と言っていたが結局来なかった。やはり受験勉強か。大変そうだ。
間もなく駅に到着した。いったん思考を停止する。ポケットから定期を取り出し、機械に通した。