藍色グラデーション

さんらいと

「知ってますか、伊緒菜?」

彼女のあたたかい声は、黒く冷たい海に揺らめきながら響いていた。

「代名詞の『I』は、文のどの位置にあっても大文字になるんです。文頭になくても大文字なんですよ」

「そんなの中学校で習うと思うけど」

「じゃあ伊緒菜は、それはなぜだと思います?」

彼女はその言葉を待っていたかのように切り返す。

私は少し戸惑った。『I』が大文字になる理由なんて、当たり前だと思って考えたことのなかった。確かに、you、he、she、他の一人称の代名詞を考えても、そのような異様な特徴はない。一瞬頭文字のせいかとも思ったが、それはitの存在から否定される。

彼女は私に充分に考える隙すら与えずに、再び口を開いた。

「『I』は特別なんです」

彼女は自慢げに語る。

「たったアルファベット一文字でできた単語は、英語の中に『I』しかないんです。まさに唯一無二ってワケですね」

彼女は人差し指を空に向けて立てると、こちらを向き直して、更に続ける。

「だから、他の単語と混ざらないように、『I』は大文字になるですよ。常に『I』は自分を主張し続けてるんです」

彼女は掲げた指を砂浜にあてて、縦に一本の線を引いた。

「随分と強情な理由だね」

「そうでしょうか? 自分って、いつだって自分の世界の中では主人公でしょ? だから、それくらいの横暴は許されると私は思いますけど」

「確かにそうだけど、私は『I』が特別だとは思えないな」

彼女の言葉を聞いて、私は立体的にイメージしていた。『I』が他の単語の密集する、まるで人混みのような場所に独りで立っている姿を、私は想像していた。

「私は、『I』は曖昧で不安定なものだって思った」

「曖昧、ですか……?」

彼女は可愛らしく首を傾げた。

「そう。大文字になって強調されなければ、文の中に紛れて見えなくなる。単語としてすら認知されないただの文字に成り下がる。そんな儚い存在を、私たちは必死に主張するんだなって」

私がそう言うと、黒い波が私たちの足元まで訪れて、彼女の書いた文字をさらっていった。

「でも、共感は出来るかな。ちっぽけなアルファベットに価値を見出して、それを大切なものだと、特別なものだと信じてる。何ら私と変わらないかもね」

私はそう言うと、胸に付いているいくつもの紋章を見返した。そして改めて、思わず吹き出してしまうほどに、私のその表現はピッタリと自己紹介をしていることに気が付いた。

きっと、いつになっても私は『I』を求め続けるのだろう。

たわいもない雑談が終わると、輝く星空に浮かんでいた赤い月が、丁度水平へと沈みきるところだった。

「そろそろ時間みたいだ」

「そうですね。行きましょうか」

私は腰から銀色の短剣を抜くと、大きく空へと向かって掲げる。隣を向けば彼女の足元にも、青色の魔方陣が描き出されていた。

今日も私は自分を証明するために、小さな文字を探しに行く。小さな画面の中の大きな世界で、私が見つけた小さな幸せには、何よりも大きな価値のあるものだと、私はずっと信じていた。

真田 伊緒菜は静かな朝が好きだった。

朝というものは、多くの人間にとって慌ただしく過ぎ去るものであり、より多くの人にとって認め難い日常への入口でもある。

現に、目覚まし時計のアラーム音というのは、わざわざ人間を不快にさせる音声を使っている。四〇〇〇ヘルツという人間の最も聞き取りやすい高周波数に、これでもかと神経を逆撫でするような邪悪を織り交ぜる。

これは夢うつつな状態の人間を現実と向き合わせる為には、残酷なまでに合理的な手法であるのだろう。

伊緒菜は、この金切り声のような音が嫌いだった。

不快感によってスタートする一日は、あるいは不気味な電子音に頼らねば一日を始められないような怠惰さは、彼女にとって、最も程遠い存在であると認知されていた。

まるで愛嬌のある特徴かの如く語られる「朝が弱い」という言葉を、彼女は心の中で強く否定する。

彼女は、朝というものが、快い朝の日差しや透き通った鳥の声によって始まるものだと理解していたし、自分がその中にいることを信じて疑わなかった。

もはや、目覚まし時計の鳴る五分前にアラームを解除することも習慣になっており、それは 彼女なりの世の中に対するささやかな抵抗だった。

改めて軽く鏡で髪を直し、部屋を出る。 一階にあるリビングへと階段を下りるにつれ、視界はより明瞭に覚醒していった。

階段を下るリズムでさえ、彼女は一定に刻まないと気持ちが悪い。つま先から着地し、かかとが勢いよく奏でるその音は、寸分も狂わずに約二十年間、彼女に染み付いたものだった。軽快な足音の響く階段は、彼女に今日も変わらぬ朝が来たことを感じさせてくれる。

リビングの前まで来ると、今度は嗅覚を朝食の香りが刺激する。

伊緒菜は曇りガラスの扉を開くと、いつもの様に一言一句、子音までハッキリと「おはよう」と呟いた。

彼女のその声に呼応して、目の前の二人は各々に口を開く。仕事着にエプロン姿の母と未だに寝間着のままの父。

流れているニュース番組を横目に、彼女はゆっくりと椅子に座る。爽やかな雰囲気のキャスターは、近く訪れる今夏の気候について語っていた。

わざわざ語る必要などないほどに、これが伊緒菜の日常であり、彼女は心のどこかで目の前にある普遍的な平日がいつまでも続くことを望んでいた。

人は生まれながらにして自由なのか?

答えは無論、否である。

多かれ少なかれ、人間は生まれた環境に支配されて育っていく。家族であるのか、時代であるのか、幸福であるのか、不幸であるのか。状況は異なるにしろ、人はどこかで何かによって縛られていて、縛られることを望んでいる。

真なる自由とは、その檻の中でいかに羽を伸ばせるかであって、その監獄から抜け出すことを意味してはいないのだ。

約十八年の人生でそんな無意味な結論に至った伊緒菜は、無限大に広がっていくであろう青春時代の真っただ中で、人間の望むべき生き方というものに失望する事はなかった。寧ろ、生き方の理不尽さを考える前に、自分が生まれてこられたことへの感謝を改めて心へ刻む。

まるで安っぽいラッパーの如く、伊緒菜は産んでくれた両親を尊敬し、育ててくれたことを感謝した。

言うなれば、それは彼女にとっての「檻」であった。

生まれてから一年間、彼女は「瑠香」と呼ばれていた。

伊緒菜は体の弱い女の子だった。何度となく大きく体調を崩し、繰り返し県内の大学病院へ通った。

度重なる診察の末たどり着いた、「原性拘束型心筋症」と呼ばれるその病名は、彼女の人生がわずかしか残されていないことを示すものだった。

伊緒菜が生きるには海外での手術を受ける他ない。それには莫大な資金を必要としていた。

瑠香と呼ばれた一年間、彼女の両親は自分の子供のために、血眼で様々な場所を駆け巡った。それは地元の駅前からインターネットの海の中まで多岐にわたった。最初は二人だけだった「るかちゃんを救う会」も、いつの間にか数え切れないほどの人数になっていた。

そして一年後、瑠香は救われる。

偶然にも日本で見つかったドナーの男の子の心臓を移植され、伊緒菜の瑠香としての人生は終わったのだ。

両親は彼女に自由に生きることを望んでいた。だから、瑠香という名前を与えたし、やりたいことを好きにやらせるつもりだった。

もちろん、伊緒菜もそれに応えているつもりだった。仮にそれが自由とは離れた結果になっていたとしても、彼女はその気持ちが自分の意思であると信じていた。

故に伊緒菜は、駅前の雑然とした人の波を見ると、瑠香であった過去を思い出す。

通り過ぎていく、ひとりひとりに救われたこと。そして、広場の前で父が叫ぶ姿を想像する。

しかし、彼女は自分の過去を重荷に感じることは無かった。むしろ伊緒菜は、この理不尽な運命に恥じない生き方をすることこそが、自分に与えられた使命だと感じていた。

誰よりも相応しく生きればいい。

彼女は強い子供だった。怪我をしても泣くことはなかったし、玩具をねだって駄々をこねることもなかった。

近所のおばさん達や担任の先生にはよく褒められた。そして、一部の人間にはよく妬まれた。

それは、伊緒菜が小学生の時の事だった。

彼女がいつもの様に自分の机で読書をしていると、妙にその日は男子の集団の声が心を乱した。

振り返ると彼らは、一人が持ってきた携帯ゲーム機に群がっているようだった。後で聞くに、その日はそのゲームの発売日だったらしく、「すげぇ!」とか「やべぇ」とか、知能の察せるレベルの会話を彼らは楽しんでいるようだった。

彼女はため息をつくと真っ先に席を立ち、職員室へと向かった。その行動に何の躊躇も無かった。仮に飼い主でなくとも、動物のしつけはしっかりと行うべきだと、その時の彼女は真面目に考えていた。