「違う。火星ソーダが目指す味はこんなんじゃない」
腕組みをした清津アリカはそう言って、目の前のグラスに注がれた赤褐色の液体を睨みつける。そのまま深くため息をつくと、グラスに手を伸ばし、一気に飲み干した。瞑目し渋面を作っているが、彼女の態度は決して大げさではない。そのぐらい不味いのだ、これは。
「意外といけると思ったんすけどね、ジンジャーエールとブラックコーヒー」
缶のブラックを使ったのが失敗だったかもしれませんねと、そ知らぬ顔で言う副会長の十日市。気楽なものだ。なにしろ彼は、一口たりとも口をつけてはいないのだから。わたしの代わりに飲んでくれよと思うが、そうは問屋がおろさない。
「葛葉の意見を聞きたい」
火星大王陛下がこう仰っているからには、わたしは今すぐ悪ノリ全開の液体を飲んでみせるしかない。大丈夫、いつものことだ。肩の力を抜いて無表情を心がける。注射と同じだ。怖がって力めば力むほど痛い目をみる。毒じゃないのだから、割り切って口にすればいいだけだ。
そして、わたしは注射を克服できていない。
「どうよ」
「どうもこうも、こんなものを子供に作って飲ませる母親がいたらいやだけれど」
一種の虐待の域に入るとさえ思う。子供にコーヒーは飲ませないだろうと、わたしは作成前から繰り返し説得してきたのだけれど。
「わたしが熱を出して寝込んだ時にお母さんが飲ませてくれたんだよ。それは間違いないんだよ」
幼い頃の思い出を語る清津アリカ。これがずるい。
彼女には母親がいない。ついでに言うと、父親もいない。七年前に火事で亡くなったそうだ。彼女は高校近くのアパートに一人暮らしをしているし、本来は保護者の同意が必要な手続きを、アリカの名義で行っている姿を見かけたこともある。ただ、直接確かめたことはなかった。そこまで踏み込む必要も感じられなかった。
その、所在不明の母が自分に残してくれた唯一の味が「火星ソーダ」なる珍妙な飲み物なのだというから、たちが悪い。
アリカが生徒会長に、わたしが生徒会書記に就任した高校二年の秋。顔合わせを兼ねた最初のミーティングで、アリカは皆に飲み物を振る舞った。めいめいに口をつけ、それぞれがその独特な味わいを表現すべく苦心することになった。
高校二年で同じクラスになって、彼女がたびたび奇矯な振る舞いをすることを知っていたわたしは、アリカに訊ねた。一体これは、なんのいたずらなのかと。
「君たち生徒会役員には、任期の間、わたしの作る火星ソーダのテストに付き合ってもらう」
訊いてしまったのが運のつき。生徒会は公の活動の裏で火星ソーダの開発研究室と成り果ててしまった。
本日も開発失敗。高校三年の夏休みを返上して、アリカは生徒会室を根城に研究に邁進する。夏休みの自由研究ならまだいい。これをアリカは年中無休で続けている。助手に付き合わされるのはこのわたし、屋島葛葉。見返りはない。
「あーあ、火星大王なんてペテン師が、こんな田舎にいるなんて思わなかったわたしはアホだよな」
「大王言うな。大王さまはこっち」
アリカは事務机の上に鎮座しているおもちゃをうやうやしく取り上げて示した。
ブリキのロボット。その名も火星大王。何十年か前、本当にその名で売られていたと伝え聞く。電池式で本来は歩くそうだが、中の回路が壊れたのか、今は単なる置物だ。
一昨年の文化祭、フリーマーケットエリアでアリカが掘り出したロボット。生徒会長就任以来、生徒会室のデスクに鎮座ましましている。瓶底メガネをかけたような顔にハサミのような手、そして短足。チャーミングだと思う一方で、遮光器土偶を連想させもする。
敵か味方か、正体不明。箱書きがあるわけでもなく、インターネットで検索しても詳細な説明は見つからない。これを一目見て「火星大王」と見抜いたアリカは、後に話してみた限りでは、オールドトイマニアというわけではなかった。恐らくずっと以前から、火星を冠するあらゆるものにアンテナを張っていたのだろう。
「くださいなっ」
「三〇〇円です」
「価格破壊だね」
毛先に少しだけ癖のあるショートヘアの女の子が火星大王を抱えて人ごみに消えていくのを、わたしは売り上げ帳簿に書き込みながら見ていた。隣のクラスの清津さんとはじめて交わした会話だった。面白そうな女の子だな、と感じた。
アリカは、わたしがフリーマーケットの店番をしていたことを覚えていない。
そのことを指摘して、笑い話にしてもよかった。けれどどこか悔しくて、わたしは時々揶揄をこめて、彼女を火星大王と呼ぶことにしている。火星のあれこれで手一杯で、地球のは眼中にない王様。そしてアリカはそれを嫌う。せめてタコ野郎にしてくれなんて顔をしかめて言うのだから、妙な塩梅だ。
「火星大王って、ぴったりなのに」
わたしの言葉に、そうっすよね、と十日市が同意の声を上げる。それを見て、手で制すようにして、アリカが言う。
「わたしみたいな平民が王の名を語るなど、畏れ多い」
「主観と客観の相違っすね。会長は生徒会に君臨してる、って感じっすよ」
十日市に他意はなかったろう。背はめっぽう高くて190センチを超えているのに、150センチそこそこのアリカに対し、いたって低姿勢の男だ。しかし、今のは揶揄と捉えられても仕方がない。
「十日市。お前さ、平民宰相って知ってる?」
大人びた男の子のような声で、アリカが問う。
「田中角栄っすか」
「それは今太閤。平民宰相は原敬」
「勉強になるっす」
「いや、まあ、どっちでもいいんだよそれは。要するにね、最高権力者になることと、生まれついての権威とは性質が異なるわけ」
「ああ。つまり会長は、影のドンになりたいわけっすね」
余計なことを。アリカはにんまりと笑う。
「そうだとも。気品なんかなく、人をあごで使うような卑しい感じのな。十日市、アイス買ってこい」
踏ん反りかえって腕を組み、アリカは悪い顔。しかし十日市はいやな顔ひとつせず、
「なにがいいっすか」
なんて言ってのける。完全服従。見かけは大学生、下手すれば社会人と思ってしまうほど大人びているのに、中身が追いついていない。
火星ソーダ計画において、彼は材料の買い出しという重要なポジションを担っている。要するにパシリだ。
しかし流石にこの暑さ。冗談でそれは可哀想だ。普段止めない自分が偽善者だとは分かっていても、ポーズとして、止めておかねば。
「いいよ十日市。このくそ暑い中、買ってきたってすぐ溶けちゃうよ」
「くそ暑いなんて言い方は似合わないっすね屋島センパイ。大丈夫っす、俺ならドア・ツー・ドアで9分、いや8分で行けます」
自信まんまん。飼い主の期待に応えようとする忠犬のようだ。そしてわたしは犬より猫が好みだ。
「よし行ってこい十日市!」
「任せてくださいっ」
既に走り出していた十日市にアリカが放り投げたのは生徒会用の財布だ。それを背面キャッチで受け取り、十日市は廊下に消えた。
「彼も、そこまでする必要ないのに」
「わたしの舌が求めているんだよ。ガリガリ君という快楽を」
ガリガリ君は溶けはじめた頃の味わいがベストなんだよ、と力説するアリカ。棒アイスにそこまでの思い入れをもてるものだろうか。
アリカの価値観なんて、想像もつかない。
彼女の記憶の中だけに存在する味を、わたしたちが確かめても無意味だろうと思う。だからわたしは最初。彼女一流のジョークなのだと適当にあしらっていた。
けれど、それからも途切れることなく作り続ける彼女の態度に嘘はないように見えた。
わたしは大いに困惑し、悩んだ末、味見するだけでいいのならと考え直し、友人の実験に付き合うこととなった。
そう。単なるクラスメイトだったのに、気付けば、友人以外のなにものでもなかったのだ。だから、複雑だ。
「火星ソーダが完成するまで、十日市には頑張ってもらわないと」
「本当に。わたしもいい加減解放されたいよ」
「もうちょっとだよ。大枠は間違ってないと思うんだ。かなり惜しいところまではきてる感じで」
机の上の火星儀をくるくると回すアリカ。私物ではなく、地学講義室の整理の際の出土品だ。保管状態が悪くて少しへこんでしまっている。どうせ使わないからと、地学教諭からありがたくお借りしたものだ。主にアリカのおもちゃとして活用されている。
「なんだっけ、現時点での最高傑作って」
梅雨明けが宣言された七月中旬、さんさんとした笑顔のアリカが持ってきた試作品。最終フェーズと豪語し、夏休みも学校に顔を出す決め手となったあの一品の材料はなんだったか。
「すりおろしたショウガに炭酸水を注ぎ、そこにハチミツをひとたらし、干したデーツをつぶして混ぜて、そこに麦茶を50cc」
「麦茶はないよね……」
単純に飲み物としての評価をするなら、もっとましな味の試作品は山ほどあった。正解に近づけば近づくほどまずくなっていく。
「いいや、麦茶がニアピンなんだって。甘さ控えめの炭酸に苦みを加えるって方向性で合ってるはず。後はこう、ミネラルっていうか、磨き上げるっていうか」